■遠州産地の歴史

江戸時代

中期~後期

 この頃から綿花づくりが全国各地で行われるようになり、温暖な気候に恵まれた遠州地域においても、綿花、藍などの栽培が盛んになる。

 遠州地域は綿の主要産地であっただけでなく、染料の原材料となる藍や紫根、紅花も栽培されていたことから、農家が副業として手織りの綿織物を作り始め、やがて賃織りを各農家に委託する事業が起こり、人を集めて織機を織らせる織屋が誕生した。製品は「遠州縞」「笠井縞」と呼ばれ、取引された。

 明治初期~後期

 木綿商人による販売活動が盛んになり、東京や大阪に販路が広がり、遠州織物は、三河(愛知県)、泉州(大阪府)と並ぶ三大綿織物産地の一つとして全国に知られるようになった。

 明治以降は、国の殖産興業政策により、織物技術の普及と振興が積極的に行われ、明治29年には豊田佐吉が小幅力織機を発明し、明治中期には織機等の更なる改良など、事業者の積極的な技術導入と機械化や、広幅織物の導入により、生産量が増加し、遠州地域の織物産業は一段と発展した。また、この頃から福田地区(磐田市)でコール天の製造が始まった。

明治末期~

大正時代

 遠州織物は、広幅織物や小幅織物のいずれの製品も、地域に集積・分業化した高度な加工技術をもつ事業者らが協力して、高付加価値製品を開発することで、綿の一大産地を形成していった。

 また、この頃、動力織機が開発されたことにより、ますます生産量が増大し、同時に、遠州地域に動力織機の製造業者が続出した。

 第一次世界大戦の影響で輸出向けの広幅織物の生産が盛んになり、織物産業は好景気に沸いた。

大正初期には、福田地区での別珍の製造や、「浜松ゆかた」の注染染めの生産が始まり、また、大正15年に日清紡績浜松工場が誘致された。

 昭和初期~

昭和10年代

 昭和初期、サロン織機の発明により、遠州地域は縞サロンなど、広幅織物(洋服地)の生産が大幅に増加した。しかし、第二次世界大戦中、織物工場が軍事産業へ転換が余儀なくされ、遠州織物産業は大きな打撃を受けた。

※サロン…東南アジアの人たちが着用する腰巻

昭和

20~30年代

 戦後、朝鮮戦争特需により遠州織物は、「ガチャマン景気(ガチャっと動くたびに1万円儲かるという意味)」とも呼ばれる空前の好景気を迎え、この機会に乗じて新設された織屋も数多くあった。

 景気の循環的な好不況の繰り返しはあったものの、昭和40年代前半までは、国内販売や輸出が順調で、産地規模も拡大していった。

昭和

40~50年代

 石油ショックやアメリカへの輸出に関する規制などによる厳しい環境と、ウールの和装ブームや別珍・コール天ブームなどの流行等により、好況・不況の景気の波が繰り返される時期が続いた。

昭和

60年代

 昭和60年のプラザ合意による円高の進展により、昭和62年には輸入量が輸出量を上回る状況となった。

 この影響は遠州織物産地にも徐々に波及し、中国や東南アジアからの安価な海外製品により、国内外の市場を奪われ、転業・廃業する工場が多くなり、業界の縮小傾向は一気に加速した。

 一方で、このような中で生き残った織屋は、高付加価値の新製品を開発し、世界的ブランドとの提携や自主提案型の生産を進めるなどにより、遠州織物の品質は高い評価を受けるようになった。

平成初期~

平成10年代

 引き続く安価な海外製品の大量流入や景気の後退等により、遠州織物産地の規模が縮小したが、業界一丸となって新製品開発や販売ルートの拡大を目指してきた。

平成20年代

以降

 ファッション業界との連携の強化や衣料以外の分野への進出に取り組んでいる。